またダラダラと長い話をする。
死を語る歳ではないのかもしれない。
僕自身が、仮死状態とか、昏睡状態だとか、そういった類いの経験をしたわけではない。
ただ、身内が亡くなる前夜という状況は、幼い頃から幾度も立ち会ってきた。おじいさんのときも、おばあさんのときも。忘れられない不思議な感覚だ。
今の僕の持つ言葉では不思議な感覚としか言いようのない、非日常な感覚。
一人の時には、ふと、そんな夜を思い出して、あの感覚がやってきたりするんだ。
僕のおじいさん(じーやん)は、釣り師だった。
僕の実家からほんの数キロ離れたところにじーやんの家もある。
山仕事をしながら、磯にでかけては魚を釣る、豪快なじーやんだ。
そのじーやんが、僕が高2の夏、逝った。
詳しいことはよくわからないが、磯から他の人が落ちたところを助けようとして、じーやんも怪我をしてしまったらしい。
そこから、僕が高校野球に明け暮れているうちに、じーやんの元気もなくなっていき、老人にしてはとても大柄だったじーやんが、亡くなる時には随分と小さくなっていた。
当時は甲子園を目指して、野球、野球、野球。
自分が釣りにのめり込むことなど、想像だにしなかった。
あれから6年の年月が経ったのか。
その間に僕は自分なりに釣りを勉強し、ルアーだけでなくエサ釣りもやるようにもなった。
上手いかどうかでいったら全くの素人だが、要は、じーやんの狙っていた魚を狙えるようにはなった、という事だ。
そうしているうちに、なんの縁か因果か、地元の磯に行く日があった。言わずとしれた、超1級の地磯。
駐車場には管理のおっちゃんがいて、軽く会話してから磯に降り、釣りはからっきしダメだったので、そそくさと上がって管理のおっちゃんと話をした。
お「どっからきただぁ?」
僕「〇〇(地元の地名)」
お「ならあんたぁ、あんねげの孫かいや(それならお前、あの家の孫って事か)」
僕「ですです。」
おっちゃんの目が少しだけこわばった。その視線は僕の頭から顎、そして胸のあたりまでの数十cmを辿った。数秒、沈黙。そして、その目と僕の目が再び合ったところで、こわばった目の緊張が解けた。
お「…そうか。よく来たな。…面影がある。…よく、来たな。」
言葉こそ少なかったが、おっちゃんが言わんとしていることが、ひしひしと伝わってくるようだった。
お「あんたのじいさんとおらぁ(おれは)、よくここにも釣りに行って、競争もしたもんだ。ここいらで、山と海のことであんたのじいさんのこと知らん人間は居らんよ。」
ゾクゾクした。
僕は、じーやんの姿に憧れているのかもしれんな、と思うのに時間はかからなかった。
じーやんの人間性については、じーやんと関わっていた時の自分が幼すぎたため、美化してる部分もあるんだろうな。というのが本音だ。
でも、おぼろげながら覚えている、あの背中やあの態度、あの掌が、じーやんの人となりだったのではないか。
改めて、海に、山に、じーやんを感じずにはいられなかった。
冒頭の話に戻る。
自分が死んだらどうなるんだろうか。
誰もが考えるであろうこの疑問に、じーやんが、おっちゃんが、この縁が、こたえのヒントをくれた気がしてならない。
僕が死んだら?
どーもなんねーよ。
じーやんと2人でこの海に釣りに行くだけだ。
そう考えることができた瞬間、人の死に立ち会うあの感覚が、優しいような、温かいようなそんな感覚に変わっていった。
もし、何十年先に、自分に孫がいたとしたら。
この縁が、繋がっていってくれるとしたら。
自分が死ぬのは怖い。そりゃあ怖い。
けれど、
そうかそうか。
それでいいんだ。
じーやんに釣りに呼んでもらえるその日まで、
僕は、明日も釣りに行く。
うまい魚を釣って、
やっと飲めるようになった酒を飲もうや、
なぁ、じーやん。
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